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娘とともに自分を見失いがち。
と、その1ではついばかなことを
かきましたが
『ぐるりのこと。』は
自身のうつになった経験から「希望は人と人との間にある」という答えを導きだした
監督の姿勢が、現在のぬまぶの状況にガツンと響いたんだろうと思います。
妊娠して、身体が思うようにいかなくなると
「他の人は皆、きちんと生活しているのに
私だけ生きる資格無し」とか思いがちなんですよ。
「生きる資格」とかいう言葉を使うこと事態ナンセンスだと頭で分かっていても
心がもやもやしてしまうんですなー。
木村多江の奥さんも
「ちゃんとしたいのに、ちゃんとできない」と言って
泣いてましたが
こういった落ち込み方をする人って、
客観的にみて、ここ10年位で急に増えたような気がするなー。
ひとつ「上手くいかない」と全てが将棋倒し的に「悪く」見えるようになってしまい
なかなか抜け出せなくなる循環に脚をとられがちな気がする。
精神疾患の種類と数は時代によって劇的に変化しますが
鬱という心の風邪が流行るのにはやっぱり
「わたし」を貫く無言の眼の存在というか、
社会的な枷のありかたにも問題があるのだろうよ、と思う。
で、
映画のなかで木村多江の奥さんは絵を描くことによって再生しますが
その一方で、リリーさんの法廷画家という職業を通して
個人の物語に収束されない遠景としてここ10年の様々な事件がかなりリアルに描かれておりました。
連続幼女誘拐殺人事件、地下鉄サリン事件、文京区幼女殺人事件・・・など
それらの法廷のシーンを観ていると、ぬまぶは何かこう、心のウラッカワをガリガリされる気分になった。
しかしそのうちになんだかんだで音楽が流れて、エンディング。
涙を流したのでなんとなくスッキリして映画館を出、
駅に向かったらば
連続幼女誘拐殺人事件のMの死刑が執行されたというニュースがスポーツ新聞の見出しが目に飛び込んできた。
一番最初に持った感じたのは
「ああ、執行されてしまったのか・・・。
・・・しかしこれで本当に終わったのだろうか?」
という虚脱感と疑問。
それからやっぱり、心を爪でがりがり引っ掻かれるような落ち着かない気持ちが再びやってきた。
それは何かというと「後ろめたい」気分なのだね。
子供の頃は「自分が被害者になったらどうしよう」
妊婦の現在は「娘が同じような被害にあったらどうしよう」と単純に怖れる一方で
わたしは、こうした現実のまん中に子供を産む事を「後ろめたく」思っている。
通っていた編集部でMの手記を扱っていたこともあって、なんとなくその存在を近く感じていたこともあるけれど
偶然というのは重なるものでこのとき
わたしのかばんには大澤真幸の新刊『不可能性の時代』が入ってたのだな。
★★★★★
・・・・とかなんとか書いて
「続きうまくまとまらないなー」と困ってたのですが
ちょいと身体的な理由でとてもそれどころではなくなってきてしまいました。
(またフェイク陣痛かもしれないけど)
とにかくコトを済ませねば。
想い悩んでも時間は待ってくれぬ。
案ずるより産むがやすし
だといいなあ。
落ち着いたらまたご報告します。
いってきまーす。
やってきまーす。
アカゴのセレモニードレスとお揃いで自分のワンピースも縫いました。
カシュクール型なので授乳もオッケイ。
画像だと随分白いですが、実物はきなりの色です。
麦わら帽子に合わせたいので、退院の日は晴れるといいなあ。
夫は仲間はずれだ。イヒヒヒヒヒヒ。
アカゴは順調に骨盤内に降りてきまして、無事定位置にロックオンされました。
ロケットでいえば発射台にあがったところ。
あとはもうカウントするだけらしいので、ひたすら毎日歩いて、スクワットしています。
前駆陣痛という陣痛のリハーサル現象も起きていまして
明け方によく腰と腹がパキーンと張り、焼けるようにしばらく痛くなる。
イデデデデ、と身体を曲げて耐えるのですが
「なんの、これしき、まだまだ!
本番はこんなもんじゃないぞ!おまえの根性を見せてやれ!」
「うん!頑張る!アタシ!」
と一人コール・アンド・レスポンスして、何故か最近は体育会系のノリになっていル。
生粋のインドア派の私が体育会系ポジティブになるなんて人生って不思議だな。
引力の関係で、満月と新月の大潮の日には赤さんが沢山産まれるらしいですが
7月の大潮は2日と3日と4日。
おおお、マジカに迫っておるがこの波に乗れるかしらん?
最近通ってる安産灸でも、今日は骨盤開くツボに針してもらったので
ウキウキ・ワクワク・ビクビクの時間をすごしております。
<以下本文>
映画おさめに行ってきました。
産まれたらもうしばらーく、銀幕なんてみられないだろうから、何にするか悩みましたが
橋口亮輔監督の6年ぶりの新作『ぐるりのこと』にしました。
結果、とても良い選択だった。いーい映画。
もう、ネットで予告編みただけでだだ泣き。
≪予告編≫
http://www.gururinokoto.jp/trailer/index.html
リリー・フランキーが主演て、どうなんだろう?とか勝手に懸念していたのだが
役にぴったりハマっていてとても魅力的だったですよ。
夫さんと一緒にシネマライズの二階席に阿呆づら並べて、おにぎり食べながらみたのだけれど
140分もある全部のシーンが、きらきら光ってましたね。
ちっとも長く感じなかったよ。
木村多恵の奥さんが涙と鼻水を流しながら「どうして私と一緒にいるの」と
泣く場面があるのだけれどまったく同じことをぬまぶもよく云うわな。
そうやって夫を責めて、責める自分が嫌になってもういちど
「なんでこんな私と一緒にいるの」と責めるスパイラル攻撃(深刻さが全然違いますが)。
観終わったあとしばらくは、ありがたいなーと思い夫さんに対する愛が溢れて止まらなかったですよ。
それで
≪以下暴走≫
高校生の時、音楽の授業で『カロ・ミオ・ベン』というイタリア歌曲を習ったのを思いだしましたよ。
カロ・ミオ・ベン
(Caro mio ben)
(邦題 いとしい人、愛しい人etc.)
作曲 ジョルダーニ
訳詞 教科書のを適当に変えた
C Caro mio ben, credimi almen,
senza di te languisce il cor,
恋人 信じて
貴女がいないと 私は暗いよ
(中略)
Cessa, crudel, tanto rigor!
cessa, crudel, tanto rigor, tanto rigor!
やめて むごい仕打ちを
やめて やめてよ むごいこと
(中略)
caro mio ben, credimi almen,
senze di te languisce il cor.
恋人 信じてよ
貴女なしでは つらいよー
その時はなんか変な詞だな、意味分からん、ムカツク(このへんが餓鬼)と思っていた。
特に
Cessa, crudel, tanto rigor!
cessa, crudel, tanto rigor, tanto rigor!
やめて むごい仕打ちを
やめて やめてよ むごいこと
のあたりが。しかし
ああ私はウブだったのね。本当の愛を知らなかったのだわ。
川崎のはずれで酔っ払い、前にも後ろにも進めなくなったぬまぶを
新車で回収しに来てくれたあの日の夫さん。
道すがらぬまぶは何が気に入らなかったのか「離婚する、もう離婚する、断然リコンだ!」
と最初は威勢よくわめいていたのだが、そのうち「うう、気持ち悪い、吐くー」と唸り出した。
夫さんはファミレスの駐車場に緊急停車させ、
隅の排水溝のところまで連れていき、背中をさすりながら
「はい、吐いてー。」
と言った。
しかし、ぬまぶは
「でへへ、うっちょーん」。
と云った。
「・・・・・・。」
再び車を走らせて15分ほど行くも
またもやぬまぶの「うう、吐きそうー、吐きそうー、てゆうか、吐く。」コール。
今度はコンビニの駐車場に駆け込んで
「はい、吐いて。吐きなさい。」
「でへへ、またうちょーん」。
とまた云った。
「・・・・・・。」
そして三度目に車を発進させた直後
ぬまぶは何も言わず新車のシートに盛大にリバースした。
なのに夫さんは怒らなかった(怒っていたのかもしれないが、覚えていない)し
ぬまぶを離婚せず今日に至っている。
二人でドライブ行ったあの日の帰り道。
もっぱら運転手役で疲れていた夫さん(ぬまぶは免許持ってない)が、
高速道路の入り口に舵を切ろうとするのを
「やめて!高速道路なんて!悲しすぎる!
旅っていうのは目的地に直進することを旅と呼ぶのではなくて
その過程を味わうのが旅の醍醐味なんだよ!」
と目に涙をためながら(本当に泣く)制止し、主張するぬまぶに
「・・・・・分かった。」
と従い下の道に迂回してくれた夫さん。
しかしぬまぶは15分ほどで飽きてカーッと寝てしまう。
さらに大渋滞に巻き込まれるはめになるも夫さんはぬまぶを離婚しなかった。
乗り物大すきの夫さんを後目に
飛行機でもなんでも窓際を譲らず占拠するくせに
いつでも5分でカーッと寝てしまうぬまぶ。
あとで、怒ってる?つらい?つまらない?と聞くと
いつも無言で微笑む夫さん。
本当にありがとう。ぬまぶはあなたのお陰で初めて愛というものを知ったヨ。
ところでお腹の赤さん、長らく性別不明だったのだが
針灸院の先生によるとどうも女の子らしいとのこと。
あー、これはもう絶対手下にしてぬまぶとぐる組ませよう、と思う。
夫さんがうるさくて眠れないと言っても
枕もとで一晩中パーティだ!ストームだ!無礼講だ!
夫さんは男だから仲間はずれなのだ。イッヒヒヒヒ。
←妻の理不尽に遭遇した際の夫の顔のパターン
「何で怒らないの」
ときく(責める)と
「・・・気づきをまってるんだよ」
と言う。
★ぐるりのこと2(ちゃんとした感想)にツヅク
庭のアーティチョークが食べごろなのだ。
お湯で15分ほどゆがいたら
外側からがくを一枚一枚千切って
オリーブオイルとマスタードと塩と胡椒を混ぜた
ドレッシングにつけて食べます。
ンマーイです。かぶらのような、たけのこのような、ユリ根のような味。
まるで自分が伊丹十三になったような
優雅な気分になれます(芸能界いちのアーティチョーク好きだったそうです)
さて、以下が本文ス。
≪倫理・道徳≫
親になったら子供を叱らねばならないらしい。
「きちんと」叱らないで、
子供が暴れていたりすると「あの家(親)はしつけがなってない」と言って後ろ指をさされるわ
村八分だわ、ロケット花火を家に打ちこまれるわするらしい。
ああ、怖いよー。
一体私にそんな事が出来るだろうかよ?!と思う。
昨日のことですが
ぬまぶはマルイにあるパン屋さんのイート・インコーナーに居た。
腹がヘッテイタので菓子パンをもぐもぐ食べながら、本を読んでいたんだ。
オモチロイ新書だったので結構夢中で活字を追っていたのだが
ふと、視線を感じて顔をあげると、4歳くらいの女児のまんまるい黒目にかちあった。
ナナメ前のテーブルに母親と座っていた彼女はぬまぶと視線が合うと、
まっすぐ右手でぬまぶを指差しながら、おもむろに歌い出した。
「いーけないんだ♪いけないんだー♪
いーけないんだ、いけないんだー♪」
へ?!わたし?!
不意打ちをくらい、ぬまぶはヒョトヒョトと回りを見渡したけれど
彼女が指差しているのは確かにぬまぶだった。
「コラッ○○ちゃん、そんなことしちゃダメ!」
青ざめた母親が慌てて女児の手をはたく。
・・・・・・。
・・・いや、いいんです。彼女は正しい。
モノ食べながら本を読むのはお行儀悪いことだよね・・・・。
きっと○○ちゃんはお母さんにいつも
そうやって言われてるんだよね。
すみません、
私こそ大人のくせに(ついでに妊婦のくせに)
見本にならないふるまいをして・・・・。
その歌さ、四半世紀前にぬまぶもよく歌ってたよ・・・。
まだ歌い継がれているんだね・・・。
譜面におこしてみました。
(小林武文氏監修)
それにしても、ここで着目したい問題は、
いくら幼児で人の年齢についての判断力が未熟であるとしても
どう見ても「大人」のぬまぶに初対面でその歌を歌うかや?!
という点にあるのである。
確かに、通常まん丸いメガネをかけているぬまぶはよく「くいだおれ人形」
に似ていると言われるので子供には幾分親しみ易い容姿をしているのかも
しれないけど、それだけが理由ではないよね。
親しみ易いというよりも、
おそらく子供に「こいつは同等だ」と認識されてしまう傾向があるんだね。
つまり「なめられ易い」ということが確かにあるのだ。
先週は姪っ子の三歳児とガチで家遊びをしていたのだが
彼女はぬまぶ以外の人は「オジイチャン」「オバアチャン」
「マルマルちゃん(もう一人の叔母さんのこと)」と普通に呼ぶのに
何故かぬまぶのことは「ぬまぶ」と呼び捨てにする。
で、
その日は「使い終わったサランラップの芯でビニールボールを打つ」
という遊びをしていたのだがこの娘、はじめは大人しくボールを打っていたが
そのうち興奮しだして、ぬまぶの頭をポカポカ打ちだしたのである。
これはいかん、と思い
「これ(サランラップの芯)はボールを打つものであって
ひとの頭を打つものでは無い」
とまじめに説明したのだけれど
お説教のあとにも
彼女は興奮覚めやらぬかんじで
瞳の光もらんらんと
隙あらばもう一発打ってやろうとしているのが明らかなのである。ぜんぜん効かぬ。
(姪っ子の名誉のために断っておくが姪っこは普段はよくしつけられた優しい良い子です。
だが何故かぬまぶといる時は線がひけなくなってしまう、と回りの大人は口をそろえて言っている)
そういえば、大学生だった時にも
5年間も「塾のせんせい」をしていたのだが
「せんせー、せんせーは本当に頭がいいんですか?うそなんじゃないですか?
いつも口あけっぱなしだよ」
とか失礼な事を言う生徒がいたな。
今でこそ、頭のネジもボディラインもゆるゆるで、相応の「おばあちゃん」になってしまったが
ぬまぶの母親はとても厳しい人で
娘たちの「しつけ」という点に関してはかなりピリピリ頑張っていたと思う。
母親が怒るのは怖かったし、ドスの効いた声や
三角に吊り上がった目を今でも鮮明に思い出す事が出来る。
しかし、皮肉なことに
あれだけ必死に行われた「しつけ」を私は成長の過程でことごとく転覆させてしまった。
飴ダマひとつ舐めるのも「座って、口のなかで転がせ」と言われていたのに
高校生になったら
私は制服のまま多摩川土手で焼き鳥を歩き食べする娘(しかもひとりで)になってしまった。
まんがは読んでも買ってもいけないかったのに
私はまんがを描いて小銭を稼ぐようにになってしまった。
「お勉強」が出来る子になるように母は私に「あやとり」を強制し
時には泣きじゃくる私をはがいじめにしてまで「ロンドン橋」をマスターさせたのに
私は「お勉強」が出来るようにはならなかった(後に普通に勉強したら成績は上がった)。
自分のそういった変遷を知っているので
なんかこう、強気に、ちゃんとしつける気になれないというのもあるんだなあ。
しかし、「子供になめられ易い」「自分の成長過程にしつけの成果を感じられなかった」
という理由のほかに
やっぱり一番問題なのは「自分のなかの道徳の規準が分からない」というのも
あるのだなあー。
「言語社会」研究科なんていうたいそうな名前の機関で
やらんでもいい研究をしてきたにも関わらず、倫理・道徳を司る
私の言語能力は勉強すればするほど落ちる一方だった。
興味本位でポストモダン、とかポストポストモダンとか浮かれて相対化してたバチが
あたったんだな。きっと。
カントの「判断力批判」の読書会とか出席してたんだけどなー。
結局、「何かすごい」ということは分かったけど
「定言命法」とか分かったようで分からぬままよ。
なんとなくこんな子はイヤだなあーというイメージ(ヒップホップの格好してヒップホップをこれみよがしに踊る子供はイヤ!とか。)はあるけれど、
全然理由ないもの。ただの好みにすぎないなー。
好みと定言命法は違いますよネ。
「なすべきことをなせ」
って
今の私には、さしあたり陣痛に耐えて
子供を産むことしか思いあたらないなー。
「腹をくくれ」という意味じゃないよね。
誰か教えて下さい。
日本てぬぐいを組み合わせてじんべえをつくりました。
バイアステープは家になかったので豆しぼりをナナメに切って代用。
今どき、ひょうたん柄のツギハギってのも冴えなくていいな。ふっふっふっ。
文化出版局刊「愛しのベビーウェア』という本を見てつくりました。
気がつけばスッサン予定日まで1ヶ月を切り
正規産の週数にはいりましたので
あんまり遠出をすることも無くなり
なんとなーく間伸びした日々が続いておる。
夫さんが自宅作業をしている日ならば
部屋のなかにある防音室をガバッと空けて
「アタシ!彼と寝たわ!
愛されたの!
このお腹を見て!これが証拠よ!」
などと叫べば
「なにぃー?おまえー、あんなうす汚くて臭いどら猫のどこがいいんだ!
目を覚ませ!この、あばずれ!バシッ(平手打ちのまね)」
と近所の野良猫と我々夫婦の三角関係ドラマごっこに夫さんも
適当につきあってくれたりして、余計なことも考えないのだが
ひとりで日をすごしていると
だんだんセンチメンタルになってくる。
ヨツンバイになって床掃除をすると安産になるというので、
雑巾がけを済まして一息つき
せいけつな部屋に黙って座っていると
なんとなく、しんしんと、奇妙な孤独に身体ごと浸されていくのが分かる。
私はラヴェルの「マ・メール・ロワ(マザー・グース)」という曲を
ピアノ独奏で聴くのがすごく好きなのですが
今日もこれを聴いてひとりでうー、うー、うーと泣いていた。
はじめはポロポロと滴のようにピアノの音が落ちてくるのが
展開し扇のように曲が現れると、私は自分の記憶の
最も古いあたりにつれ戻されるような気がするよ。
親の庇護にあって、図式的にはそうでなかったはずなのだが
ものすごく孤独だった少女の頃を
思い出すのだなー。
お腹のなかでは耐えずアカゴがもくもく動いていて
一人以上の存在になっているはずなのだが、そういった身体的な充実感が
増せば増すほど泣き笑いを同時に起こす感情の波にゴーと襲われる。
嬉しいのとも違うし寂しいのとも違う。なんなんでしょうか?
しかし、いつまでも家でレコードかけてひとりで泣いててもしょうがないし
体重も規定オーバー気味なので近所の図書館までウォーキングに出かけることにした。
図書館へ続くいつもの散歩コースを10分ほど行くと
「貝淵商店」というとても好きな魚屋がある。
ほぼ毎日営業しているのだが一度も魚を買ったことはない。
コレハただ近くを通りかかって店主とその奥さんとその友人達を見るのが楽しい店なのだ。
貝淵商店は大通りに面した2つぼほどの店で、
道路にはみ出す程立派なガラスの魚ケースと天井まで積み上げられた木箱
が並んでいるのに、中はほとんど空っぽで、だいたいいつも刺身が何サクとか干物が
少し入っているだけだ。
天井からはいろいろなものがぶらさがり、店の周りにならべられた発砲スチロールの箱に植えられた
さまざまな植物が狂ったように花を咲かせている。
で、店主と奥さんと、その友人と思われる人(いつも誰かしらいる)達も丸テーブルごと
道路にはみだして、降っても晴れてもお茶を飲んだりおしゃべりをしているのだ。
ちょっとしたサロン風。
いわゆる「お商売」をしている姿は一度も見たこと無いなあ。
今日はぼんやり柱にもたれかかる奥さんの横で店主がスケッチブックに向かっていた。
長い銀髪を無造作に伸ばした痩せた初老の店主にスケッチブックは良く似あう。
何の気なしの通行人のふりをして横目でちらっとなかみを覗いたら
筆ペンで
「ちはやふる」
と縦に書きつけていた。
それを見て満足して
さらに
ぎんぎんぎらぎらの
日差しの下をひとりで歩くのだが
やはりセンチメンタルになってきてどうしようもない。
皆と遊んでいたはずなのに
気がついたら誰もいない公園でひとり一輪車にまたがって
5時のサイレンを聴いていたこととか(秋だった)
押入れの中に入りこんで懐中電灯で遊んでいたら
突然たまらなく恐ろしくなって
ぶるぶる震えながら這い出したこととか
原初的な不安と孤独が蘇るのだよ。
なぜそれを今ごろ頻繁に思い出すのだろう。
いまの配偶者とであってからはとんと忘れていたのだけれどなあ。
思うに、
アカゴを胎内に宿す妊婦はさまざまな文系分野で
母子密着イメージのモデル、融合のモデルとされるけど
母子一体の理想像ってのは
観念的なものにすぎないんじゃないかなあ。
あくまでも「子」の目線から見た理想の母親像
もしくは
母親のナルシシズムをそのまま刷りこまれた息子の幻影なんじゃないかしら。
実際子宮のなかに子供がいる状態になっても
私は万能感など感じないし、
聖母や海のように偉大な存在にコネクトしてしまうわけではけっしてなく
むしろ子供の頃に戻ってしまうような不安と孤独感にサイナマレテイル。
私自身もかなわないノスタルジーに囚われたままでいるなあ。ここんとこはとくに。
これがマタニティ・ブルーというやつかしらん。
その割には詩的だなあ。
わしのアカゴもあとヒトツきでその、最初の別離の刻印をきざまれ
やがて同じ類の孤独を抱えるようになるのだと思うとせつなくてしようがない。
だとするとなんとはかない時間のなかにわたしたちはいま生きていることよ、
やっちまったなあ
と泣けてくるんら。
なす術もなくうろうろと歩き回り
図書館であんまり読む気もない本を借りて
帰り道で再び貝淵商店の前を通ると
夕闇のなかで店主がギターを弾いていた。
それが、アア、AmとAmひたすらざんばらざんばらと繰り返されるだけの音楽なんだよ。
私は本日二度目の涙を手でぬぐいながら、がに股でおうちに帰った。
帰るしかないもんね。
貝淵商店のおやじ
まだ結婚する前からちょくちょく夫さんは、私が妊娠したり出産する夢を見ると言っていた。
「ぬまぶが、出産するのに立ち合ったんだ。
結局、産まれてきたのはネコ(もしくはカエル)だったんだけど、
ああ、とうとうぬまぶも母になったんだと感動したなー」
などと寝起きのもやもや頭で感慨深げに話しているもんだから、
てっきり、現実でも出産に立ちあいたいのだとばっかり思っていた。
(なんで私が産むのがネコとかカエルとか人間じゃないものなんだ、
という問題については話がややこしくなるのでほっときます)
しかし、実際に立ち合うか立ち合わないか決定する局面に来て
今一度、尋ねてみると
「うん、立ち合うョ」
と天才バカボン顔で坊っちゃん風にうなずく夫さんの態度には、
なんだか不透明な部分がある、と私は思った。
「立ちあいたいの?」
「うーん・・・でも、その方がぬまぶもいいでしょ」
「そうじゃなくて、コバヤ(夫の名)の意思、欲望として立ちあいたいかどうかだよ」
「そうねえー?」
表情は変わらないもののなんだかのらりくらりしている。
ゆ・ら・い・で・い・る・の・か?!と不審に思ったので
去年アカゴの産まれた知り合いの超子煩悩な居酒屋店主にどうだったか聞いたらば
「そんなん(分娩室なんか)男の行く場所じゃない」
という酷くシンプルな答えがかえってきた。
えーっそうなのか。
もし私が男性だったら絶対立ちあいたいと思うだろうと想像し、
当然男の人もお産に参加したいものだとばかり思っていたので、驚いて
今度はインターネットの某掲示板で「立ちあい出産経験した男性のスレッド」を覗いてみた。
すると、
確かに「素晴らしい経験だった。立ちあって良かった」という信憑性のある意見も
3割位あるにはあるのだが、
「妻の前では「感動した」と言ってるけど
実は何がどうって経験でもなかった。男同士では話題にも上らない」
という意見がわりと目についた。全体の6割くらいはこんな意見だという印象をうけただ。
へええー、だ。
私はアホみたいに、夫婦で力を合わせて出産という一大イベントを乗り越えて
「親の自覚」に達する、というスゴロクみたいな台本を思い描いていたのだが
一つの経験に対する人間の感受性が多様なのはあたりまえか。
やっぱり頭お花畑妊婦なんだな。
戦争を経験した世代の話を聞いていても
ある意味教科書通りに、戦争の悲惨さを正面から説いてトラウマや平和を主張する人もいれば
ものすごい事を体験しているのに本当にサラっと興味のなさそうな人もいるしな。
で
先日
帰宅がひとりで遅くなってしまい
妊婦が夜道をふらふらするのも危険なので駅からタクシーを利用した。
休日なのに割と混んでいた電車で人に揉まれた後だったので
私のぶわぶわしたお腹を見て
「あらー、おめでたですかー。良かったですねえー。」
と優しい言葉をかけてくれた運転手さんにぬまぶはほっとしてつい心を許した。
「初めてのお子さんですか?いやあ、子供はいいですよー」
と言われて
エヘヘ、アハハそうなんですー。なかなか出来なかったんスけど
はずみで授かって夫もよろこんでるんですー。などと積極的に会話していた。
それで、今日はー、夫のライブに行ってきたんですよー、あっ夫は音楽やってるんですけどー
出産したらなかなか行けなくなるしー、などといらんことまでしゃべっていた。
優しいおじいさん声で
「じゃあ、産まれてくるお子さんも才能がある子かもしれないですねえー」
なんて言われれば
いやあ、天才ならいいんですけど、中途半端に芸術や文学にかぶれると不幸になるから、
あんまり音楽や文学にはふれさせたくないんですー
とかさらに適当なことを調子に乗ってしゃべるわたし。
「いや、本当に子供はいいですよ。子供がいるからアタシも頑張ろうって思うしねー」
「あらー、お孫さんいらっしゃるんですか?」
「いや、孫はまだですけどね。いつが予定日ですか」
「いやあ、あと1ヶ月半で産まれる予定なんですけど
ビビってしまって。一人で産むのは怖いので
夫さんの仕事の都合が立ちあいにあえばいいんですが。」
と言ったとたんに
ふと、車中に奇妙な沈黙が訪れた。
あれ?と思ったがちょうど家の前についたことだし、
お金払おうと思ってメーターを覗いたら
運転手さんはゆっくりと振り返り、低い声で言った。
「・・・インポになりますよ。」
「・・・・・・。」
帽子の下から覗く髪は総白髪だったし、ずっとほのぼのしたこと言っていたから
おじいさんだと思っていたのに振り返った彼は意外に若く、50に手が届くかといった雰囲気で
白木みのるのような顔をしていた。見開いた、充血した目をぬまぶは怖ヒと思った。
「・・・・あなた、これは余計なお世話かと思いますが
人間の出産てものはねえ、ウマやウシとは違う」
「はあ・・・。」
「血も信じられないくらい沢山でるしねえ、
胎盤なんて!あなた胎盤見たことありますか。
あんなもの!6キロはあるかな(注・胎盤は6キロもありません)
こんなですよ!(と手を広げる)
特にあなたのだんなさんは音楽をやってるような繊細な人でしょう。
あんな恐ろしい経験に
耐えられる訳が無い!」
「・・・立ちあい、なさったんですか?」
「立ちあいどころか!
アタシがとり上げたんですよ。アタシが!家で!病院に間に合わなくてね!」
それからはすっかり彼の独壇場で
ぬまぶは延々、彼の家のダイニングの
アカゴがズルズル出てくる血の海の、白熱の、スプラっター話を聞かされた。
というか、もうとっくに家の前についてるんだが、
20分以上そんな話していていいのですか?個人タクシーじゃないみたいだけど、
業務中なんじゃ・・・。
ぬまぶはだんだん不安になったので
「うーん、うちも二人は子供欲しいのでそれは困りますね。
もう一度考え直してみます」
と途中でムリヤリ割り込んで言ったら
「そうそう、そうした方がいいですよ」
と言ってやっとお金を受け取って開放してくれた。
そこまでして彼が伝えようとしてくれた事は何だったのだろうか。
結局、彼はインポテンツになってしまったということなのだろうか(それは聞けなかった)。
やっぱりゼムール氏の言うことは正しいという事だったのだろうか。
謎が謎を呼ぶ夜だった。
でも、やっぱり怖いからぬまぶは夫さんに立ちあいしてもらいたいとまだ思っている。